親鸞聖人の関東

35歳の時、冤罪で越後に流された親鸞聖人ですが、流罪地での暮らしぶりは、ほとんど伝わっていません。ただこの時には結婚をし子どももおられたようです。近年では、京都の吉水時代に恵信尼公と出会われ、結婚されていたと考えられています。

罪人生活は、5年が過ぎる頃には恩赦で罪が許されました。法然上人はすぐに京都に戻られましたが、親鸞聖人は越後から関東へ旅立たれていかれます。おそらく越後で過ごす中、やるべき仕事ができたと推測されます。

関東で聖人は20年もの間、各地を回ってお念仏の布教活動をされました。詳細は不明ですが、現在でも群馬・茨城・栃木・千葉などに聖人の遺跡(ゆいせき)や、教えを受けた弟子たちを祖とするお寺が多く残っています。これらは「二十四輩(にじゅうよはい)」とも呼ばれ、江戸時代になると紹介するガイドブックが出たほど人気でした。
後に高田派の祖となった真仏(しんぶつ)や顕智(けんち)、聖人が絶大の信頼を置いた性信(しょうしん)、『歎異抄』を編集した唯円(ゆいえん)など、現代にもその名が伝わっている高弟も多くおられましたが、特に有名なのは山伏弁円(やまぶしべんねん)です。

中村不折 「親鸞伝画譜」

関東の人々は、聖人の勧めにより浄土真宗を喜ぶようになりました。しかしそれによって信者をとられ、おもしろくない人々もいました。中でも山伏の弁円一派は、信者を盗られたと逆恨みし、聖人を殺す計画を立てました。ところがいくら殺す機会をうかがっても成功せず、業を煮やした弁円は、ついに聖人の庵に直接のりこみます。

 

刀を手にとり気色ばんで出向いた弁円ですが、訪ねてみると聖人は一向に驚く気配もなく、普段着のまま平然と出迎えられました。これには弁円も感じるものがあり、聖人と話をしてみたくなったのでしょう、弁円は聖人と向かい合う中で、自分の間違いに気づき、謝罪をし、さらにその弟子となったのでした。

「明法(みょうほう)」という法名を聖人からいただいた弁円ですが、その後、聖人に先立って亡くなります。それを知った聖人は、「明法が浄土に往生したことはたいへんすばらしいことだ、皆も見習うように」とたいへん喜ばれました。

そのような関東での出会いを、聖人は「いなかの人々」と親しみを込めて呼び、晩年まで深く交わっていかれました。そこには生活の中で念仏し、誰とでも自由に出会っていかれた法然上人のすがたを追う、親鸞聖人の念仏生活が見えてきます。