法蔵菩薩と我々

九州の友だちの披露宴に招かれました。20年ぶりの再開でしたが、一番最初に思いだしたのが、彼がお坊さんになった時に名告った法名が、釈の「敬信」だったということです。これは親鸞聖人の書かれた『教行信証』に出てくる言葉ですが、「信を敬う」という名前を持っている彼だということを思いだしたのです。

それと関連するのですが、近代の真宗の教えでは「法蔵菩薩」が大きな関心として、先人の先生方がとりあげられています。そのことをこれまで聞いていたのですが、今ひとつ自分の関心事としては定まってきませんでした。それが先日あるご法事で、「我々の死んでも死なないような魂というか祈りを「法蔵菩薩」と言われているのです」、と思いがけず自分で言い切ってしまったことから、にわかに法蔵菩薩が自分の関心事として出てくるようになりました。

ご法事では「魂」とか「祈り」とか微妙な表現を用いていますが、これは親鸞聖人の言葉では「信」になると考えています。ですから我々が自覚し目覚める「信心」とは法蔵菩薩のことであるとつながります。自分の言葉でそのようなことを言ったことから、法蔵菩薩が一気に自分の関心事としてなったのでした。

九州の友だちの法名にもどれば、彼は自分の名前であるけれども、その自分が敬うべき「もの」が自分の内に在ることが示されています。それは彼だけのことではなく、我々誰もが、-宗教に関心があろうがなかろうが、目覚めようが目をつぶっていようが、-法蔵菩薩と共にあることを、浄土真宗は言っていると思うのです。