存在の重さ、死の空虚さ
【ただ存在すること。そのこと自体がもうすでに声なんだ】
本日の朝日新聞「折々のことば」に紹介されていた言葉です。本来の文脈は別にあるのですが、この言葉自体から、私は死の重さを連想しました。
死は、私たちに悲しみや辛さをあたえますが、しばしばそれ以上の空虚さをもたらします。縁が深ければ深いほど、その死によって、自分の生活や人生に欠けてしまった事がおこったことを感じさせます。
仏教などを学んでいると、その非常さを何とか説明し、自分を納得させようと、小賢しくも仏教の言葉を持ち出してみますが、その空虚さは言葉や知識では決してつくろえられないことを思い知らされます。それもそのはず、死は存在の欠如ですから、言葉では穴埋めできるはずないのです。
ではどうするのか。言葉も知識も手の届かない存在の問題は、善くても悪くても、その死を「うん」とうなづくしかない。それが唯一の死との向き合いかただと思います。
ただし、いつ、どこで無条件にうなづけられるのか。そこが問題です。