葬式無用論のおこがましさ

新聞に、「私は葬式もお墓も無用。骨は海にでも撒いてしまってほしい」と、ある小説家の言葉が紹介されていました。随分前には、「死に顔は見苦しいので見せるな」と言い残した知識人の遺言も記憶に残っています。

このような文化人や知識人が語る「葬式無用論」は、いさぎよい、きっぱりとした死生観として取り上げられている感じがしますが、私には「いのちの私有化」としてごう慢に見えてしまいます。

そもそも葬式や墓は誰のためにあるのでしょうか。それは亡くなっていく者のためではなく、見送る者のためにあるのであって、別離を確かめ、その人との出会いを偲ぶためにあるのが、葬式や墓なのでしょう。だから自分の葬式や墓について本人がとやかく言うのは、まったくおこがましいことだと感じるのです。

いのちの誕生の時は、親をはじめとする人々が、おめでとうと子どもの顔を見に来ます。それを否定したり拒んだりする人はいません。ましてや、本人がそのような大げさなことは望んでいないと代弁する親などいないでしょう。

だから同じいのちの終わりも、家族をはじめとし、縁のあった人々に見届けられていくことが、その本来性にかなうことでしょう。葬式無用などと指示したり、家族以外の弔問を断ったりすることは、無数の縁によって生きてきたいのちを私有化することだと思うのです。

人は様々な事情のなかで死んでいきますから、一概に批判はできません。しかしそれを現代の死生観のように取り上げたり、受け取ったりするのは大いに問題があると考えています。