諸法無我(しょほうむが)

「どのような存在も固定的・決定的ではない」、これが諸法無我の教えです。

「無我の境地」などとスポーツや芸能などでしばしば言われますが、大抵は格別な集中力や優れた行為を形容しており、本来の意味では使われていません。また滅私奉公のように主体性を失ったり、祭りの狂騒や酒で酔う興奮状態とも違います。それは無我ではなく忘我だと批判されます。

無我の「我」とは、私たち誰もが持つ「思いこみ」だと言えます。それは「私は正しい」という強固な思いこみです。私は正義であり優れており善人である、私たちはそのような偏った自己信頼を無意識にしていると仏教は教えています。

そのためその思いこみに沿った現実、-成功し優秀で称讃されれば、幸福であると人生を味わえますが、もしそれに反した現実、-失敗し劣り軽蔑されれば、途端に不幸だと歎かざるをえません。ですから私たちが日頃感じている幸不幸は、すべてその「思いこみ」によって左右されています。

事実はどうかいえば、善いこともあれば悪いこともあります。若くおそれ知らずな時代もあれば、年老い病気に悩まされる時も来ます。思った以上に都合よく進む時もあれば、理不尽さにつまずくこともあります。たとえ成功し続けて思い通りの人生を過ごせたとしても、最後は必ず死にます。決して人生は思い通りにはなりません。

そのように、私たちの事実は縁によって善いことに悪いことに変化しつづけていきます。若く美しいまま固定される私などなく、老い衰えていくことも自分として受けとらなければなりません。

また逆に、決定された人生や自分もありえません。ですからどれだけ失敗しても間違っても悪人のまま終わることなく、再び出発することもできるわけです。