上宮寺 勝祐絵像

16世紀の戦国時代に上宮寺の住職を務めたのが34代勝祐(しょうゆう)でした。

勝祐は同じ三河三ヶ寺である岡崎は針崎(はりさき)の勝鬘寺了勝(しょうまんじりょうしょう)の実弟にあたり、彼等の父了顕(りょうけん)は蓮如上人の弟の孫でした。この時代、本願寺と地方の有力寺院は養子や結婚でお互いの関係を深めていき、勝祐以前からも上宮寺には蓮如の娘孫である如舜(にょしゅん)が住職として入り、上宮寺は本願寺と血縁でも連なる関係となっていました。そのようなことから勝祐はひんぱんに本願寺に出入りし、後年は一向一揆の動乱に生きた住職でした。

同時に勝祐は当時三河を支配していた今川家とも親密であり、寺院としては不入の特権をもらい、住職としては今川義元(いまがわよしもと)の娘と結婚し、その子が次の35代信祐(しんゆう)になりました。

しかしそのような今川家との関係は永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で義元が討死することにより大きく変わりました。後の徳川家康である松平元康(まつだいらもとやす)はこれを機に今川家の支配を脱して岡崎城に帰り、織田信長と結んで三河の掌握に乗り出しました。それに対して今まで今川の庇護下にあった三河の者たちは反発しました。特に本願寺系の寺院は不入の特権を反故にされることに我慢がならず永禄6年(1563)に三河一向一揆として武力衝突がおこりました。
「一向一揆」と言うと宗教戦争のようですが、三河一向一揆には寺院への弾圧や信仰の禁止などは見うけられません。むしろ家康支配に反発する本願寺系の寺院が拠点となり、旧今川勢と新松平元康勢との新旧の勢力争いになったのが実状に合うでしょう。上宮寺の寺史には、今川家と縁戚関係にあった勝祐が寺に預かっていた義元の子を旗印として、今川家再興を計ったという興味深い記述も伝わっています。

この三河一向一揆は永禄7年(1564)の春には和睦となりますが、それは実質的には旧勢力の中心となった寺方の降伏でした。これにより三河地方の本願寺系の真宗寺院は取り壊され、住職ら坊主衆は三河より追放となりました。敗れた勝祐は次代をになう孫の尊祐(そんゆう)を武田家が支配する信州に逃がし、息子信祐と共に尾張苅谷須賀(かりやすが)(現一宮市大和町苅安賀)の専正坊(せんしょうぼう)に忍棲しました。しかし元亀元年(1570)から今度は大坂の本願寺が織田信長との間に諸国の大名をまきこんでの全国規模の一向一揆を起こし、勝祐はその助勢として三重長島の一向一揆に参戦しました。

しかし長島の一揆は天正2年(1574)には敗れ、勝祐は信祐と共に本願寺教如(きょうにょ)を逃すため身代わりとなって奮戦し、尾張の専正坊まで逃れましたが、追い詰められて切腹して果てるという壮絶な最期をむかえました。時に勝祐72歳・信祐33歳でした。この絵像が本願寺顕如から孫の尊祐へ下付されたのは、全ての一向一揆が終結した天正8年から二年後のことでした。

そのような勝祐たちは正に鎧の上に袈裟(けさ)を着た僧でした。戦国期の僧たちは乱世という時代状況の中、そのような在り方を否応なくしなければならなかったのかもしれません。しかしどのような事情や心情があったにせよ、仏法に帰依した者が武力闘争に関わったことは、仏の慈心不殺(じしんふせつ)の心に背いた罪になります。そのため一向一揆は、真宗の歴史の中では美化したり誇りとすることはできず、むしろ慚愧し悲しむべき事件です。だがらこそ勝祐たちの、ひたむきながら悲しい凡夫のすがたをよく知り伝えていくべきです。