清沢満之画像
【解説】
明治は、いわゆる文明開化の明るい時代と思われがちですが、仏教界にとっては未だかつてないほどの厳しい試練の時代でした。
西洋文明との交流は、宗教や思想の世界にとってはキリスト教神学やヨーロッパ哲学との出会いであり、旧来の仏教がそれらの新しい文明と比較されることでもありました。このことにより仏教は、特に浄土真宗の教えは、ただ口に「ナムアミダブツ」をとなえるだけで何の思想も哲学も持ち合わせない、「愚夫(ぐふ)・愚婦(ぐぶ)の教え」だと軽蔑の評価を受けることになってしまいました。
また神仏分離令やそれに伴う廃仏毀釈などとあいまって、仏教はもはや新しい時代に何の期待もされない時代遅れのものとされ、近代化の波は仏教界をとりのこそうとしていきました。
このような時代の中で奮然と仏教の可能性を追求した人が、清沢満之(1863~1903)でした。清沢は帝国大学(東京大学)で近代の思想哲学の学識をつんだ後、仏教の世界にもどり、新しい時代にふさわしい「生きた仏教」を模索していきました。
彼の宗教観は「実験の宗教」と呼ばれるように、仏教を単なる机上の思想に止まらせるのではなく、自らの生活の中で実験、検証してその有効性を明らかにしようとしました。そのため実生活でも若き学生と共に暮らし、彼らと信仰について熱く談義をし、また仏教に基づく教育を目指して、仏教教育の大学作りにも奔走しました。
そのような清沢は41歳で病死し、学業や事業は中途のままで終わることになりました。清沢個人の生涯はそこで一度死んで終わりましたが、その志や願いは決して忘れられることなく、次代の人々が受け継ぎ生きつづけました。
清沢が死んで3年目、その祥月命日にあわせて一枚の絵が、清沢と縁深き画家中村不折によって描かれました。そしてこれまた清沢に教えを受けた大谷句仏により、ユーモアあふれるその讃文が、俳句でもって添えられました。
南瓜(かぼちゃ)にも 仏性(ぶっしょう)あらば この通り
清沢の命日である臘扇忌(ろうせんき)に集まった人々はどのような思いでもってこれを眺め、また清沢のことを憶い起こしたのでしょうか。
後の七回忌の際に、上宮寺の佐々木月樵が保管していたこの絵は、それを原本として石版刷りが作られ、縁ある人々に渡され、現在でも各地に残されています。それは単なる七回忌の記念品ではなく、清沢の志願を忘れて二度死なせることがないよう、皆が決意を新たにした一品であったのかもしれません。