親鸞聖人の法難
親鸞聖人の吉水(よしみず)時代は、六年目に思いがけない形で終わります。
聖人35歳の承元元年(しょうげん)(1207)、国家は念仏禁止令を出し、吉水の念仏者を逮捕して罪に問いました。この弾圧は非常に厳しく、念仏を勧めていた中心人物として、まず4名が拷問の末に首を斬られました。殺されるまでに至らなくとも、8名が京都から追放され、吉水の念仏道場は粉々に壊されてしまいました。
さすがの国家も名高い高僧である法然上人を殺すことはできませんでしたが、その僧侶の身分を剥奪して、四国へ追放を言い渡しました。
親鸞聖人も同じく僧侶をやめさせられ、追放となりました。親鸞聖人は越後国(えちごのくに)、今の新潟の上越に流罪となりました。それまでの都暮らしからうってかわり、雪深い北国へ罪人として送られることにとなったのです。
この承元の年に起こった弾圧は、後世「承元(しょうげん)の法難(ほうなん)」と呼ばれました。親鸞聖人自身もこの法難について、「天皇から臣下まで、法に背いて義をはき違えた、まったく愚かな行いであった」と激しく批判されました。その批判があまりに激しかったため、太平洋戦争時にはその部分が黒塗りされたほどでした。
なぜ念仏を国家は止めさせたのか。なぜ念仏で首がとんだのか。親鸞聖人はこの大事件が逆縁(ぎゃくえん)となって、念仏が秘めている大きな社会変革の力に気がついていかれました。この後も聖人は何度も法難に出会うことになり、念仏と国家、念仏と社会という課題を生涯をかけて考えていくことになりました。
さて、親鸞聖人のおすがたは木像でも絵像でも必ず「えりまき」をされています。そのえりまきは法難によって雪深い北国へ追放されたご苦労を表しているのです。