天声人語の「金の光は阿弥陀ほど」の表現は問題だ

本日2020年6月19日の『朝日新聞』朝刊のコラム、「天声人語」に「金の光は阿弥陀ほど」ということわざが引かれ、それがタイトルとなって配信されています。現在話題の広島での公職選挙法違反をあつかったコラムです。

https://www.asahi.com/articles/DA3S14518104.html?iref=comtop_tenjin_n

確かに「金で物を言わせる」といった意味合いで、財力が絶大の力をもつことを阿弥陀仏でたとえる表現が世間には幾つかあるようである。たとえば「金は仏ほど光る」とか「銭は阿弥陀ほど光る」といった同義語があり、「地獄の沙汰も金次第」も類義語とされる。

そのようなことわざが生まれたのは、「世の中、金で買えぬものはない」といったような、世間における財力の強力さと同時に、財と仏教が深く結びついていることを皮肉ったものとも考えらる。

しかし昔も今も阿弥陀仏を本尊として手を合わせ、金では決して解決できない問題に向き合う人々がいる。

生きる辛さや死への不安は金では解決できない。人生を振り返ったときの空しさや、老いや病気や死しかない未来への恐怖はいくら金を持っていてもなくならない。それは何千年前から言われ続けている。だから阿弥陀仏に縁を持ち、阿弥陀仏によってたすかろうとする無数の人々がいる。

だから、いくら俗に「金の光は阿弥陀ほど」ということわざがあったとしても、執筆者が阿弥陀仏や仏教を尊ぶ者であれば、そのような表現は使うはずがない。少なくとも真剣に阿弥陀仏の教えを聞いている人がいることが想像できれば、ためらうはずである。

自分たちが大切にしていることをゆがめたり傷つけることはやめてほしい。