「慈悲」の主語は誰だ
【祓(はら)いのけることはしないで、穢(けが)れたままで救うということ、これを私は愛と言い慈悲というのです。】鈴木大拙
救われんとすればこれこれの条件を満たす必要がある、と言うのでなく、そのままでいいと、傷や汚れやあがきごと抱擁すること。それが「慈悲」だと仏教学者は言う。他の人に向かい、何の条件も付すことなく、ただ「いるだけでいい」と言えるかどうか。宗教の信は一にそこに懸かっている。安藤礼二編「折口信夫対話集」から。(鷲田清一)
本日(2015年11月3日)の朝日「折々のことば」には禅者である大拙先生の言葉が紹介されてました。大拙先生の言葉は日本の神道・触穢の習俗を意識された大事な言葉です。ただそれを解説する鷲田さんの理解には問題があるように感じます。どこが問題か、それは単純に「言えるかどうか」と、慈悲の主語を自分と考えている所です。
大拙先生が語る慈悲とか愛は、「行えるか、行えているか」と問われれば、できないと言わざるを得ない事でしょう。胸を張って「できている」と言える人がどこにいるのでしょうか。だから「言えるかどうか」ではなく、「言えない」といちど切る必要があると思います。
一度切った上で、だからこそ「言える」者に成りたいと起ち上がる。そこに鷲田さんが言われる「宗教の信」が懸かっていると思うのです。す。