死を知ってどう面白がる?

[がんになると「いつかは死ぬ」が「いつでも死ぬ」になる。それじゃあ生きている間、おもしろがりたい。]

今朝(2016年6月23日)の『朝日』折々のことばで紹介されていた女優の言葉ですが、関心を引いたのは鷲田さんの問い。

[ただ人は、残される人への思いだけは断てない。その時間をも「面白がる」にはどうしたらいいのだろう。]

 

すぐに想い出したのが、ニカーヤの『涅槃経』に伝えられるお釈迦さまの遺言です。(これは岩波文庫の『ブッダ最後の旅』で読めます)

「様々な事柄は消え去っていく。怠ることなく勤めよ」

この遺言についてある先生がテストで出された問題があります。

[「消え去っていく、無くなっていく」と知ったら、普通は「では、できるだけ楽しく過ごそう」と考え、「怠けずに生きよう」とは思わない、となるのではないか。どうして釈尊はこのような遺言をしたのか]

という問題です。どうでしょうか。

死を宣告されたら、残された時間をいかに快適に、楽しく過ごすかに本人も回りも関心をおきます。しかし単に死を迎える直前まで、それから逃避するための快楽であったら、全く空しいだけでしょう。おそらくそれは回りの人々はもちろん、死を迎える本人が一番よく分かることになるでしょう。

では本人も、残される人々も「面白がる」あり方はどうすればいいのでしょうか。おそらくその答えは、自分だけでなく「共に面白がるあり方」を問題にするところに、自然に見つかると思います。