親鸞聖人の帰洛
35歳で越後へ、40歳からは関東の国々へ。定まった家を持たず、縁によって様々な地に家族と共に漂泊した親鸞聖人でしたが、60歳頃に京都へ帰る最後の旅に出ます。
なぜ京都へ向かわれたのか、昔から考えられてきましたが、60という還暦を迎え、まさに自分の最期を考え始めた聖人が、旅の人生を終えて故郷にもどろうとしたというのが、一番素直な推測だと思われます。実際に聖人の旅はこれが最後となり、亡くなるまではまだ30年ほどありましたが、京都から出たという話は伝わっていません。
関東から京都までは、今では新幹線で2-3時間のことですが、聖人の時代は「十余カ国の境をこえて、身命をかえりみずして」と『歎異抄(たんにしょう)』にあるように、大変な旅だったようです。試しに現代に茨城から京都まで歩いてみた人が言うには、20日以上かかったと教えてくれました。
聖人は京都へ帰る途中に、この三河の地も通られました。急ぐ旅でもなかったようで、聖人はこの三河でしばらく逗留されたようです。伝説では桑子(くわご)の妙源寺(みょうげんじ)にある柳堂(やなぎどう)で、当地の人々にお念仏の教えを語り聞かせられたと言われます。
柳堂はこの上宮寺と目と鼻の先にある場所です。ですので親鸞聖人が教えを説いていることは、住職の耳にもすぐに入ったようで、気になった住職は柳堂を訪ねたそうです。
当時の住職は24代の蓮行(れんぎょう)という、比叡山で学んだ人物でした。そのため柳堂で説法する見知らぬ僧に不信感を懐き、人びとを惑わすようなら、折伏する気概で出向いたようです。しかし実際に親鸞聖人にお会いすると、これは師として仰ぐ人だと驚き、天台の教えを棄てて、浄土真宗の教えに帰依したそうです。その時から、上宮寺は浄土真宗のお寺になったと言われています。
親鸞聖人の帰洛は、この上宮寺を含め、各地に新たに念仏の種をまいていった最後の旅でもあったのです。