佐々木月樵
上宮寺48代佐々木月樵(ささき げっしょう)は明治・大正期の念仏者です。安城市の古井の願力寺(がんりきじ)から学問を勤めることとして上宮寺に養子入りをしました。青年期に清沢満之(きよざわ まんし)と出遇ったことより、暁烏敏(あけがらす はや)・多田鼎(ただ かなえ)と共に東京で浩々洞(こうこうどう)を立ち上げ、志を共にした師弟と、宗教の、そして真宗の可能性を近代に問う活動をしました。
清沢亡き後、月樵はその大学教育の志を継ぎ、京都の大谷大学設立に尽力しました。その中で第3代の学長として大谷大学の基本理念となる「大谷大学樹立の精神」を告辞しています。大きくは宗教大学設立を願い、足下では近代仏教学の礎を築こうとした教育者でもありました。
大正の末に仕事半ばの52歳で亡くなりますが、多くの人々がその教育の志を引き継いでいきました。