お釈迦さまの降魔
六年間もの修行生活の末にゴータマは苦行(くぎょう)を放棄しました。体を痛めつけても精神は自由にならず、かえって疲れ気力を失うだけだとわかったからです。仲間たちはその姿を見て、ゴータマは堕落したと軽蔑して見限りましたが、その決心は変わりませんでした。
ゴータマは体を清めるために苦行林そばの尼連禅河(にれんぜんがわ)で沐浴(もくよく)しました。しかし疲れにより川辺で倒れ、通りかかった長者の娘スジャータによって介抱されました。スジャータは乳粥(ちちがゆ)という牛乳で作った甘いお粥をゴータマに供養し、それによって再び気力を取り戻すことができました。このスジャータの乳粥供養を、ゴータマは晩年までうれしいこととして憶い起こしています。
気力を取りもどしたゴータマは、アシュバッタという樹の下に座り、課題が解けるまで動かないと決意を固めて禅定(ぜんじょう)に入りました。「禅定」とは瞑想(めいそう)のことです。心を落ち着かせ、一つのことに集中することです。ゴータマは生きることの苦しみがどこから来るのか、どうしたらなくなるのかを禅定のなかで深く深く尋ねていきました。
その時です悪魔たちがやってきて襲いかかりました。悪魔は道が明らかにされることを嫌って、必ず行者に迫ってくる存在のことです。悪魔たちの襲撃は二つの形でやってきたと、後にお釈迦さまは語っています。
一つ目は人生で得られる楽しみや快楽への誘惑でした。「道を求めても明らかにならず、無駄に終わるだろう。人生は短いのだから楽しむべきで、若さや健康を喜ぼう」と。
二つめは暴力や死への恐怖でした。「しょせん真実など圧倒的な力の前では役に立たない。どうせ死ぬのに道を求めてどうするのか」と。
悪魔とは私たちに芽吹いた道を求める志をくじき、その心を折ろうとするものです。世間のなかに再びもどることを要求し、足を引っぱる誘惑や恐怖です。世間の外に飛び出そうとする者は、必ずこの悪魔の襲撃を受けます。
ゴータマは禅定のなかで悪魔と対決しました。そして悪魔とは、世間での楽しみに未練を持ち、暴力や権力に怯え、またはそれに執着する自らの世間心であることを見定めました。
正体がわかり見切ることができたら、もはやそれは力をもたない虚像となります。もはや誘惑も脅かすこともできません。ゴータマは魔を降(くだ)し、世間に戻ろうとする誘惑や恐怖を断ち切ったのでした。これがお釈迦さまの降魔(ごうま)です。
後世、ゴータマの降魔が仏像として表現されました。それは大地に触れるすがたです。それは次のような物語からです。
快楽や恐怖ではくじけないゴータマに対して、悪魔は最後に「お前の行いが成就するなど誰がわかるものか」とくやしまぎれに叫びました。それに対してゴータマは静かに地を触れ、「この大地が私の行いを知っている」とはっきりと言い切りました。それによって悪魔はもう邪魔できないことを知り消え去ったというのです。世界全体が確信を持ってゴータマの目覚めを待ち望んでいたことが物語られています。