一向一揆から近世へ

一向一揆から近世の時代は、三河真宗にとっても上宮寺にとっても激動の時代でした。

戦国時代、桶狭間の合戦により今川義元が織田信長に討ち取られる大事件が起きました。この混乱に乗じて徳川家康(当時は松平元康)は、今川家からの独立を企て、地盤確保のために三河平定をおこないはじめました。ところが三河の豪族や寺院は、それまで今川家との良好な関係の中で過ごしていたため、突然帰還した家康の言うことなど簡単には聞くことはできませんでした。

特に上宮寺は今川家から坊守を迎えていたこともあり、家康への反発の中心地となっていきました。このことがやがて三河一向一揆へとつながっていきました。そのため一向一揆と言われますが、実際は新参の家康と土着の人々との、新旧の勢力争いが本質的な問題であったようです。

 

一揆は1年半に及び、家康も幾度か命の危機にみまわれました。しかし最終的には疲弊した寺方の旧勢力から和睦が求められました。これには家康も歓迎し、「もとのままにあつかう」という条件で豪族たちを家臣として迎えいれ、勢力を拡大することができました。

ところが寺側だけは一揆の責任をとらせるために、「「もとのまま」とは更地にすること」と詭弁をもちだし、一揆に関係した本願寺系の真宗寺院を打ち壊し、坊主衆を国外に追放としました。

長島敗戦 住職自害の段
長島敗戦 住職自害の段

 

この後、三河には20年以上も本願寺系の真宗寺院の存在が許されませんでしたが、家康の乳母妙春尼の尽力によって、復興が許されました。しかし、その間に上宮寺の住職たちは長島の一揆に転戦し、戦死してしまし、その復興を見ることはできませんでした。

上宮寺の戦国から近世は、そのような混迷と激動のなかにあったのです。