無条件の愛ー無縁の大悲ー

本日の朝日新聞連載「折々のことば」に次のような言葉が紹介されていました。

【誰も、誰かから必要とされていない。必要性がないのに、その人がそこにいるだけで嬉しくなってしまうのが、愛なのではないか。】

山崎ナオコーラの作品からこれを紹介した鷲田氏は、

【主人公の若い女性は、恋人となるべき異性を探し、いずれつがいとなって結婚することが幸福への道だという通念になじめないでいる。自分の存在には特定の誰かが必要だという、そんな男女の閉じた愛より、「みんなの小さな好意をかき集めて、生きていきたい」と願う。】

と解いている。言葉になっていないことを語ろうとしているもどかしさを感じるが、仏教が説く「無縁の大悲」を想い出します。

近現代の「愛」の語は、仏教では「慈悲」と言われます。そしてそれには種類があると言われています。

一番身近なものは「衆生縁の慈悲」で、いのちあるものを対象としておこる愛です。男女や親子など他者とのあいだにおこる愛はこれに入るでしょう。

これに対して、「無縁の慈悲」と呼ばれる愛があるといいます。「無縁」とは対象がないという意味です。つまり誰でもいいと言える無条件なる愛です。

鷲田氏は「みんなの小さな好意」と紹介してますが、「無縁の慈悲」は、目に見えたり聞こえたりする好意というよりも、広くは世界自体に受容されている、近くは自分自身に見捨てられないでいる、という愛と捉えられます。つまりどんな者であっても、たとえ好意に値しない者であったとしても、それを無条件で受けとめてくれる愛です。

ただし、この愛は人間が起こせるものではなく、ただ仏のみの愛と言われ、「無縁の大悲」と称されます。だから仏教は、そのような「無条件な愛」を学ぶと教えられたことを、今朝の新聞から喚起しました。