聖徳太子
仏教は西暦500年代の中ごろから日本に伝わってきました。その頃の中国は仏教文化が花開いた時期でもあり、その影響は朝鮮半島を経て日本にも伝わってきました。
当初仏教は外国の神であるとして「蕃神(ばんしん)」と呼ばれ、それを拒否する人々もいたようです。それに対して新たな仏教を土着の神道以上に尊び、それを日本に根付かせようと尽力した人びともいました。その先頭に立ったのが聖徳太子でした。
太子は寺院建立など仏教の拠点を作ると同時に、自らも経典や論書を熟読し、推古天皇や大臣たちに講義したと伝えられています。現在も『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』と呼ばれる、太子が書かれた『勝鬘経』・『維摩経』・『法華経』の三経典の講義書が伝わっています。
太子の仏教への関心は、単に思想面で終わるのではなく、為政者としての国づくりにも反映されました。その象徴が『十七条憲法』と呼ばれる日本最初の成文法です。この第一条は有名な「和をもって貴しとなす」ですが、それを実現させるために、続く第二条では、「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり」と、人々が仏教によって教えられなければならないことが示されています。ですから太子が仏教を映し出すような国づくりを願っていたことが、この『憲法』から知られてきます。親鸞聖人はその太子の願った国を「和国(わこく)」と表現しました。
そのような太子のお仕事を尊び、日本では宗派や出家・在家を問わずに太子は敬慕されてきました。親鸞聖人もその一人で、聖人は人生の中で大きな問題を抱えるたびに、太子のことを念い、太子に励まされて問題に立ち向かっていかれました。そのため聖人は太子のことを「和国の教主」であると呼び、人びとに太子の存在を勧めていかれました。
親鸞聖人は太子について、和讃だけでも200首を作り、伝記本や絵像の銘文を作っていたことがわかっています。もちろんこれらは人々に太子のことをわかりやすく知ってもらうためですので、いかに聖人が太子のことを大事にされていたかがわかります。
そのような伝統から、今でも真宗寺院では、本堂に聖徳太子の絵像や木像が御安置され、日々のお給仕がなされているのです。