妙怡尼 寄進梵鐘
三河一向一揆の赦免により、取り壊された上宮寺は何度かの段階を経て復興をしています。慶長元年(1601)にまずはと仮御堂が建てられましたが、寛永六年(1629)には本格的な本堂が再建される運びとなりました。その再建にあたって松泉院妙怡尼公(しょうせんいんみょうたいに)より梵鐘が寄進されました。
妙怡尼は、一揆後の諸寺再興に尽力した妙春尼(みょうしゅんに)の孫にあたり、初代岡崎藩主の本多康重(ほんだやすしげ)の妻でした。祖母である妙春尼と同じく、熱心な本願寺門徒であったようで、城主の奥方として上宮寺の再興に助力を申し出てくれました。
妙怡尼には早くして亡くなった娘があったようで、その供養の気持ちを込めてこの梵鐘を寄進したと言われています。梵鐘には息子である現城主の康紀(やすのり)の姉、妙悦(みょうえつ)の菩提のためと銘が記されています。鋳造に際して、妙怡尼はかんざしなどの装身具を材料としても寄進し、侍女たちもそれにならったため、鐘には金の含有量が多く、小ぶりながらも重たいものとなったと伝えられています。
大正のはじめまでは境内で時の鐘がつかれていましたが、近隣の火事の際に早鐘が打たれ、それによって割れてしまい降ろされました。そのため戦中の金属徴収も免れ、ほとんど残されていない江戸初期の梵鐘としても貴重であると言われています。