投稿「戒名とは何なのでしょうか?」
本日(1月24日)の朝日新聞の読者欄「声」に「戒名とは何なのでしょうか?」という投稿があった。内容はこうである。
身内が亡くなり葬儀をあげるのにお寺に頼んだら、お経と戒名で五十万円を請求され、簡素な戒名をもらった。それを友人に話したら、うちは三十万円だったが、通夜の席でお寺さんに故人の実家のことを話したら、「そんな立派な家柄なんですか。それでは、この戒名では失礼です(原文ママ)」と言われ、翌日院号のついた戒名にかわったそうである。
この投稿は戒名に対する必要性を疑問視して終わっている。聞き慣れず、意味のわからない戒名への不信も問題であると思うが、それよりも驚いたのは、家柄で戒名を決める僧侶が未だにいることである。
実は戒名や浄土真宗で使う法名に関して、差別性をもったものが存在することが、今から30年以上前に問題となり、各宗派はその調査や学習を行っている。具体的には家柄や身分や職業、また死因や事蹟でもって戒名や法名をつけてきた歴史が仏教界に存在することが明らかになったのである。これは世間の差別や善悪を、出世間である仏法の世界まで引きずるという、あってはならないことであり、当時の仏教界全体はその問題を重く受けとめた。
そのようなことがなされてきたにも関わらず、今でも家柄を聞き、それでもって名前を変えるという差別がなされているのは驚きである。この話では結果的には院号に付け変わるが、裏を返せば、はじめは院号をつける家柄ではないと僧侶から見なされていたことが示されている。
戒名や法名が何故必要なのか、という説明を我々僧侶がさぼってきたことも大きいが、それにも増して、僧侶自身が戒名とは何なのかを知らず、それでもって世間の差別を助長させることが問題である。